審査員特別賞3作品-②

 戦死の悩みを手紙代筆で解消
                  上野 佳平


『作文競作大会で金賞入賞』

 私は、小学校四年生の新年から、小学校の先生であった父に「原稿用紙帳」を渡されて、『四百字日記』を書かされた。
 父は「きれいな字で書けば、作文が上手に書ける。作文が上手に書ければ他の勉強もできるようになる。学校で勉強すれば、大きくなって、明るい生活が送れるようになる」と教えられた。
 小学校四年生での毎日の「四百字」は難しく、学校から帰っても、私は、みんなと遊ばずに、『日記』を書いた。
 五年生の時に、県主催の「作文競作大会」に、私は『日記』のお蔭で簡単に書くことができて、学校が私の作品を応募してくれて、「金賞」に入賞した。
 戦前の小学校は「男女別組」で。女組の多くが相談したように、運動場で私の体を触るようになった。女子組の副級長のM子は「あの入賞作品に、みんなが好きになってしまって、話す代わりに体を触るのです」と言う。☆(1)


『人間の命は大切の女性心理』

 私が別の所で、六年生、高等科の上級生の男児の多くは「女子は、お前に惚れて、体を触っているが、ワシの方が,お前より強いんだぞ」と言って殴りかかってくる。
 当時の子供達の性質は「女子は人間の命は大切で、戦争などの人殺しは反対である」と言われていた。男子は「ワシは強いのだぞと言う考えで、相手を力づくで倒しに来る。人殺しの戦争を始める」と言われていた。
 だから、男子は「勉強ができるようになるより、ケンカに勝ちたい」の気持ちである。
 私の知人の看護婦に「召集令状」が来て、町役場は公会堂で「出陣式」を行なった。看護婦の希望で、私が「送別の言葉」を読んだ。
 「人間の命は大切。敵兵でも、ケガをしたり、病気になっておれば治してやってください」などと読んで、泣きそうな顔の看護婦は「ニコッ」と笑って、その光景が有名になった。ところが高等科の上級生は「あんな作文は何が良いのか」と、私に殴りかかって来た。☆(2)

『反戦作文を書いて特攻隊へ動員』

 小学校卒業後に中学校へ入学して、私は父が「英語」を話せたので、「英語」の授業を期待したが、「英語は敵国語」と言うことで、戦争訓練の「軍事訓練」に変わっていた。
「軍事訓練」の座学の時間には、軍人教育から「天皇陛下のために戦死をするのが男子の本懐である」を叩き込まれた。
 私は「軍事訓練」の座学の時間の「作文」に、「人間の命は大切。人殺しの戦争は間違い」と書けば、軍事教官に殴られて、懲罰で、兵庫県加古川市の陸軍飛行場にあった『陸軍特攻隊』へ「学徒動員」を強制された。
 『特攻隊』では、私は志願兵でないから、飛行場直属の「測候所」に配属された。そして毎日のように特攻隊の少年兵が「飛行機に爆弾を積んで自爆」を恐れないための「殴る教育」を見ている。私の食事は少年兵と一緒で少年兵は「今にも死にたい気持ち」と言う。
 私の学校は殴る教育を知って、私が殴られるように「特攻隊へ強制動員させた」と思う。☆(3)


『特攻隊員の手紙の代筆』

 私が中学校で「反戦作文」を書いて、懲罰で「特攻隊」へ動員されたことは「少年兵」も聞いていて、食事の時に「悩んでいる本心を話してもよいと考えた」と思うことである。少年兵たちは全員が「北陸出身」である。
 一人の少年兵が「家へ手紙を出したいが、手紙を出すことは禁止されている」と言う。
 私は悩んでいる話を聞いて、内緒で就寝前のベッドで「手紙」の代筆をしてやった。
 「特攻隊」の近くの郵便局には、特攻隊の上官が居て、「少年兵が手紙を出すかも分からない」と言うことで、北陸宛ての「手紙」を点検していた。私は他の陸軍施設との連絡員でもあって、時々は外出するので、その時に遠くの郵便局で「手紙」を投函してやった。
 それを知った他の少年兵も、食事の時には、悩み事を私に話すようになって、私は、その話を代筆することにした。みんなは「悩み事が言えて、少し気分がスッキリした」などと喜んでくれた。毎日4、5通は書いた。 
☆(4)


『少年兵は飛行場施設に動員』

 終戦前に、陸軍は飛ぶ飛行機が無くなったので、その時に淡路島に、アメリカ軍の空襲を避けるために『迎撃飛行場』を設営していたから、そこへ「少年兵」は移動することになった。私は「監督庁」の「主計室」(会計)に配属されたが、少年兵が鍬で殴られるのをよく見ている。前から、そうであったが「陸軍」の上官は、私の「動員理由」を知っているので、少年兵ほどではなくて、私にキック当たっていたが、監督庁の主計室には、東大卒の上等兵が居て、「私も戦争反対で、少佐任命を断って上等兵になった」と言う。
 そこの上官は他の大学の卒業生で、官位が上であっても、東大卒の上等兵には遠慮していた。上官は私に強く当たろうとしたが、上等兵は「動員学徒だ」と止めてくれた。
 淡路島に来た少年兵たちは「人殺しのための戦争で、死ぬことを恐れないために、ワシらは殴られたが、戦争に行けないことが分かって、自爆することも無くなった」と言う。
☆(5)


『雪の降らない暖かい冬の生活』

 少年兵たちは、そこでも「手紙」が出せないので、悩み事を私に「手紙」に書いてもらいたいが、私との勤務場所が別で話せないので困っていた。私は、上官に頼んで「少年兵たちと一緒に食事をしたい」とお願いした。
 少年兵たちは北陸出身で「雪が積もる寒い北陸とは違い、兵庫県の暖かい冬が体験できたのは特攻隊のお蔭」と喜んでいる。『迎撃飛行場』が完成しないまま「終戦」になった。
 少年兵は「上野君が北陸へ来る時には連絡してくれ、改めてお礼を言いたい」と言う。
 私が中学校へ戻っても、他の生徒の「軍需工場」への動員解除の始末が大変で、私には何の「慰め」の言葉も無い。
 その後に、元少年兵からの「手紙」が中学校宛てに届くようになった。表紙が「洲本中学 上野様」だけで、上野は学校に4人も居て、手紙の内容を見て私と分かった。私は必ず「返事」を書いたので文通が続いた。私の代筆が「戦死の考え」の防止になったと思う。☆(6)

                     (終わり) 



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